신라의 불교가 전성기를 맞은 것은 통일 직후인 8세기 중반기의 景德王代였다. 불국사, 석굴암, 聖德大王神鐘을 만들도록 한 이가 경덕왕이었다. 일본도 이때 나라를 수도로 하고 불교를 발전시키고 있었다. 聖武天皇은 서기 743년에 화엄종의 本寺로서 東大寺를 건립하도록 지시한다. 745년부터 희대의 건축사업이 본격화되었다. 일본의 국력이 총동원된 대사업의 핵심은 금동불상을 만드는 일이었다. 盧舍那大佛이라 불리는 금동불상이 완성되어 준공식을 갖기로 한 것은 서기 752년이었다.
이해 정월 일본은 山口忌村人麻呂라는 사신을 신라 景德王에게 보내 노사나大佛의 開眼式(개안식: 완성한 부처에 눈을 그려넣는 행사)이 4월에 있을 것임을 통보했다. 신라는 그해 3월22일 일곱 척의 배에 700명의 사절단을 구성하여 지금의 큐슈 북쪽에 도착시켰다. 이들은 배편으로 지금의 오사카까지 갔다가 나라에 도착하여 개안식을 마친 大佛에 참례했다. 이 大佛은 높이가 16m나 되고 무게는 300t을 넘었다.
신라의 700명 사신단은, 경축사절단이자 무역협회였다. 일본인들이 부러워하는 많은 물건을 가져갔는데 일본 조정은 귀족들로부터 신청을 받아 신라 물건을 사들였다. 그 구매신청문서가 買新羅物解라는 이름으로 일본에 현존해 있다. 구매신청이 들어온 물건은 향료, 염료, 안료, 약품, 서적 등으로 실제 팔린 것은 약200점이다.
이 무렵 신라와 일본은 對발해 문제로 거의 斷交상태였다. 신라는 唐과 동맹하여 발해에 적대했고, 발해는 일본에 사신을 보내 친해보려고 애썼다. 이런 시기임에도 兩國이 함께 불교문화를 발전시키고 있었으므로 東大寺 大佛 준공 기념 관광 사절단이 활동할 수 있었다. 요사이 자본주의 무역경제가 발전하니 韓日관계가 정치적, 외교적으로 나빠져도 人的, 物的 교류는 오히려 강화되고 있는 것과 같다.
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東大寺
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東大寺
大仏(国宝、盧舎那仏)
所在地 奈良県奈良市雑司町406-1
位置 北緯34度41分11.35秒
東経135度50分27.75秒
山号 なし
宗派 華厳宗大本山
本尊 盧舎那仏(国宝)
創建年 8世紀前半
開基 聖武天皇
正式名
別称 金光明四天王護国之寺
札所等 南都七大寺1番(大仏殿)
文化財 金堂(大仏殿)、南大門、盧舎那仏(大仏)ほか(国宝)
中門、石造獅子ほか(重要文化財)
大仏
東大寺大仏殿
東大寺大仏殿
東大寺二月堂
東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の仏教寺院である。現当主(別当)は219世・上野道善。
「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である[1]。
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代、18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで貴賎を問わず広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられた。なお、奈良の大仏については、「東大寺盧舎那仏像」の項を参照。
目次 [非表示]
1 起源と歴史
1.1 創建と大仏造立
1.2 東大寺と橘奈良麻呂
1.3 奈良時代・平安時代の東大寺
1.4 中世以降
2 伽藍
3 文化財
3.1 国宝
3.2 重要文化財
4 年中行事
5 社会事業
6 ギャラリー
7 アクセス
8 補注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク
[編集] 起源と歴史
[編集] 創建と大仏造立
東大寺の起源は大仏造立よりやや古く、8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔(みことのり)が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ[2]、寺名は金光明寺と改められた。
大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔(みことのり)を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭仁京(くにのみや 京都府相楽郡加茂町)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(しがらきのみや 現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻るとともに大仏造立も現在の東大寺の地であらためて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことであった。
東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。
(大仏および大仏殿の歴史については、別項目「東大寺盧舎那仏像」を参照)
[編集] 東大寺と橘奈良麻呂
大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。
天平勝宝8歳(756年)5月2日、聖武太上天皇が死去する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったと言う。橘奈良麻呂の乱は計画性に乏しく、軽率と言えば、軽率ではあった。しかしながら、反乱の口実にまで東大寺が利用された、ということは、東大寺建立自体が、天皇の理想を実現させる、ただそれだけのために実際の労働状況や財政事情等の問題点を度外視した途方もない、一大プロジェクトであったことをも白日の下にさらした。
[編集] 奈良時代・平安時代の東大寺
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門-中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約100メートルと推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。
奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗る[3]が、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。
また、平安時代に入ると、桓武天皇の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受けるが、後に皇族・貴族の崇敬を受けて黒田庄に代表される多数の荘園を寄進されたり、開発した。やがて、南都の有力権門として内外に知られるようになり、多数の僧兵を抱え、興福寺などと度々強訴を行っている。
[編集] 中世以降
東大寺は、近隣の興福寺とともに治承4年12月28日(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃を受け、大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った。この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)であった。重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇臨席のもと、大仏開眼法要が行われ、建久元年(1190年)には、再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。
その後、戦国時代の永禄10年10月10日(1567年11月10日)、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した(永禄の変参照のこと)。大仏の修理は元禄4年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶上人(1648-1705)の尽力で宝永6年(1709年)に完成した。この3代目の大仏殿(現存)は、高さは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の3分の2に縮小されており、徳川幕府の援助をもってしても、当初の規模を再現することは不可能であった。また、講堂、食堂、東西の七重塔など近世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石のみが残されている。
[編集] 伽藍
南大門(国宝)南大門(国宝)-平安時代の962年(応和2)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗坊重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくようともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫(ぬき)と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置する。
木造金剛力士立像(国宝)-高さ8.4メートルの巨大な木像。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。それによると阿形像は大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて造り、吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人とともに造ったものである。これは、「阿形像は快慶、吽形像は運慶が中心になって造った」とする従来の通説とは若干異なっているが、いずれにしても、運慶が制作現場全体の総指揮に当たっていたとみて大過ないであろう。
中門(重文)-金堂(大仏殿)の手前にある入母屋造の楼門(2階建ての門)。享保元年(1716年)頃の再建。中門の両脇から「コ」の字形に回廊が伸び、金堂の左右に至る。
金堂(大仏殿)(国宝)-金堂および本尊盧舎那仏(大仏)については別項「東大寺盧舎那仏像」を参照。
如意輪観音坐像・"394;空"101;菩薩坐像(重文)-大仏の左右に脇侍として安置される。これらの像は大仏(銅造)とは異なり木造である。京都の仏師山本順慶一門と、大坂の仏師椿井賢慶一門らにより、30数年をかけて制作されたもので、江戸時代の代表的な仏教彫刻である。如意輪観音像は元文3年(1738年)頃の完成、"394;空"101;菩薩像は遅れて宝暦2年(1752年)の完成。
金銅八角燈籠(国宝)-大仏殿の正面に立つ燈籠。たびたび修理されているが、基本的には奈良時代創建時のものである。火袋には楽器を奏する菩薩の浮き彫りがある。
多聞天像(金堂東北隅)
広目天像(金堂西北隅)
"394;空"101;菩薩像
如意輪観音菩薩像
俊乗堂-鎌倉時代に大仏と大仏殿を再興した中興の祖、俊乗坊重源を祀る堂。現在の堂は宝永元年(1704年)の再建。本尊の俊乗上人坐像(国宝)は、上人が86歳で没した直後の制作と思われ、鎌倉時代肖像彫刻の傑作である。
行基堂-奈良時代の著名な僧で、東大寺の創建にも貢献した行基の肖像を安置する。
念仏堂(重文)-鎌倉時代の建築。同じく鎌倉時代の地"101;菩薩坐像(重文)を安置する。
鐘楼(国宝)-鎌倉時代、13世紀初頭の建築。吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼と同年の天平勝宝4年(752年)の制作で、中世以前の梵鐘としては最大のもの(高385センチ、口径271センチ)。2002年12月、NHKの下請け業者に釘を打ち込まれる事件に遭った。
法華堂(三月堂)(国宝)-境内の東方、若草山麓にある。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の1つであり、天平仏の宝庫として知られる。東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の羂索堂(けんさくどう)として建てられたもので、記録により天平15年(743年)までには完成していたと思われる。建物の北側約3分の2(参道側から見て向かって左側)の、仏像が安置されている部分が天平時代の建築で、南側の礼堂(らいどう)部分は鎌倉時代の正治元年(1199年)頃に老朽化した天平建築を取り壊し再建したものである。堂内には多数の仏像を安置し、うち本尊の不空羂索観音立像をはじめ9体の乾漆像(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、執金剛神像を含む5体の塑像(粘土製の像)が奈良時代のものである。細かい制作年代や当初の安置状況については諸説あるが、9体の乾漆像と執金剛神像が当初からの安置仏で、残りの塑像4体は客仏(後世に他の堂から移された像)とするのが通説である。
乾漆不空羂索観音立像(国宝)-奈良時代。高さ3.6メートル。三眼八臂(額に縦に第3の目があり、8本の腕をもつ)の観音像である。頭上の宝冠は、正面に銀製の阿弥陀如来像を飾り、数多くの宝石や透かし彫りで飾った華麗なもので、普段は近くで見ることはできないが、奈良時代工芸の優品として知られる。
塑造日光・月光菩薩立像(国宝)-奈良時代。本尊不空羂索観音の両脇に静かに合掌して立つ。天平彫刻の代表作として著名だが、造像の経緯等は定かでなく、本来の像名も不明である(「日光・月光菩薩」という名称は後世に付けられた物で、本来は、"220;師如来の脇侍となる菩薩)。像の表面は現状ほとんど白色だが、制作当初は彩色像であった。本来の像名は梵天・帝釈天だった、とする説もある。
乾漆梵天・帝釈天立像(国宝)-奈良時代。本尊・不空羂索観音立像の左右に安置されている高さ4mを超える巨大な像で、ゆったりとした悠揚たる風格に圧倒される。
乾漆金剛力士立像(国宝)-奈良時代。須弥壇前方左右に安置。着甲の仁王像である。
乾漆四天王立像(国宝)-法華堂須弥壇上の四隅に安置された四方を守護する神将像で、華麗な彩色文様がよく残り、天平時代の華やかさを今に伝える。
塑造執金剛神立像(国宝)-本尊不空羂索観音の背後の厨子に北向きに安置される。右手に金剛杵(こんごうしょ、仏敵を追い払う武器)を持ち、目を吊り上げて威嚇する武神像である。長らく秘仏であったため、当初の彩色がよく残る。執金剛神とは、仁王像を1体で表わしたもの。本像は東大寺の開山(初代住職)良弁の念持仏と伝え、平将門の伝説でも知られる、古来著名な像である。伝説によれば、平将門が東国で乱を起こした時、この像の'675;(もとどり、結'658;)を結んでいる元結紐(もとゆいひも)の端が蜂となって飛び去り、将門を刺して苦しめたという。たしかに、本像の元結紐は今も片側が欠失している。秘仏であり、良弁の命日の12月16日のみ公開される。
塑造吉祥天・弁才天立像(重文)-奈良時代
木造不動明王二童子像(重文)-南北朝時代
木造地"101;菩薩坐像(重文)-鎌倉時代
二月堂(国宝)-旧暦2月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火には焼け残ったとされているが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。建物は2005年12月、国宝に指定された。
開山堂(国宝)-は開山(初代住職)良弁(ろうべん)の肖像を安置するための堂。内陣は正治2年(1200年)、外陣は建長2年(1250年)の建築で、東大寺南大門とともに、大仏様(よう)建築の数少ない遺作である。本尊木造良弁僧正坐像(国宝)は平安初期9世紀の作品で、良弁の命日の12月16日のみ公開される。
三昧堂(四月堂)(重文)-本尊千手観音像(重文)、阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。
大湯屋(重文)-鎌倉時代の建築。内部に鉄湯船(重文)が残る。
勧進所-東大寺中興の祖である重源が勧進(焼失した東大寺再興のための寄金募集)の本拠としたところである。大仏殿西側の塀で囲まれた一画に阿弥陀堂、八幡殿、公慶堂などがある。
阿弥陀堂-五劫思惟阿弥陀(ごこうしゆい)像(重文)を安置する。
八幡殿-建仁元年(1201年)、快慶作の僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)坐像(国宝)を安置する。この像は東大寺の鎮守である手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)の神体であったもので、明治の神仏分離に伴い東大寺に移された。制作当初の彩色が鮮やかに残る、快慶の代表作である。毎年10月5日のみ公開される。
公慶堂-江戸時代の大仏殿再興に貢献した公慶上人の肖像(重文)を安置する。像は上人の死去の翌年である宝永3年(1706年)の作。
戒壇院-出家者が受戒(正規の僧となるための戒律を授けられる)するための施設として、天平勝宝7歳(755年)に鑑真和上を招いて創建された。現在の建物は享保18年(1733年)の再建である。内部には中央に法華経見宝塔品(けんほうとうほん)の所説に基づく宝塔があり、その周囲を四天王像が守っている。
塑造四天王立像(国宝)-法華堂の日光・月光菩薩像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作の1つ。怒りの表情をあらわにした持国天、増長天像と、眉をひそめ怒りを内に秘めた広目天、多聞天像の対照がみごとである。記録によれば、創建当初の戒壇院四天王像は銅造であったので、今ある四天王像は後世に他の堂から移したものであることが明らかである。
転害門(国宝)-境内西北、正倉院の西側にある八脚門。平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火に焼け残った寺内で数少ない建物の1つ。鎌倉時代に修理されているが、基本的には奈良時代の建物である。 2004年頃から野良猫による糞尿や爪とぎの被害が問題になっている。
毎年、3月12日に二月堂で行われるお水取りは、毎年3月1日~3月14日に行われる修二会(しゅにえ)の法要の一部であり、1250年以上の歴史を持つ。
東大寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
毎年1月1日の0時から8時までの間、中門(重要文化財)が開かれ、金堂(大仏殿・国宝)内に無料で入堂できる。(通常入堂料:大人500円・小人300円) 参拝は午前7時半から受け付けている。
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東大寺盧舎那仏像
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奈良の大仏 は この項目 東大寺盧舎那仏像 へ転送されています。千葉県市原市の奈良の大仏については奈良の大仏台をご覧ください。
東大寺盧舎那仏像東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)は、一般に「奈良の大仏」として知られる仏像で、奈良市の東大寺金堂(大仏殿)の本尊である。聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われたが、現存する像は中世・近世の補修がはなはだしく、当初の部分は台座、腹、指の一部などごく一部が残るにすぎない。「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の国宝に指定されている。
大仏の正式名称は「盧舎那仏坐像」、大仏殿の正式名称は「東大寺金堂」であるが、本項では以下「大仏」「大仏殿」と呼称することとする。
目次 [非表示]
1 大仏造立の経緯
2 大仏鋳造の技法
3 国分寺設置および大仏造立の思想的・時代的背景
4 東大寺と橘奈良麻呂
5 2度の炎上と復興
5.1 平重衡による焼失
5.2 松永久秀による焼失
6 関連項目
[編集] 大仏造立の経緯
正史「続日本紀」と東大寺の記録である「東大寺要録」によれば、大仏造立の経緯はおおむね次のとおりである。
741年(天平13年) - 聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔(みことのり)を発する。
743年(天平15年) - 聖武天皇が近江国紫香楽宮(しがらきのみや)にて大仏造立の詔を発する。紫香楽宮近くの甲賀寺にて大仏造立が開始される。
745年(天平17年) - 恭仁宮、紫香楽宮、難波宮を転々としていた都が5年ぶりに平城京に戻る。大仏造立も今の東大寺の地であらためて開始される。
746年(天平18年) - 大仏鋳造のための原型が完成。
747年(天平19年) - 大仏の鋳造開始。
749年(天平勝宝元年) - 大仏の鋳造終了。
752年(天平勝宝4年)4月9日 - 大仏開眼供養会(魂入れの儀式)が盛大に開催される。
以上のように、大仏は当初、奈良ではなく、今の滋賀県甲賀市に造られる計画であった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が相次ぐなど不穏な出来事があったために造立計画は中止され、都が平城京へ戻るとともに、現在、東大寺大仏殿がある位置での造立が開始された。制作に携わった技術者のうち、大仏師として国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ、国公麻呂とも)、鋳師として高市大国(たけちのおおくに)、高市真麻呂(たけちのままろ)らの名が伝わっている。天平勝宝4年の開眼供養会には、聖武太上天皇(すでに譲位していた)、光明皇太后、孝謙天皇をはじめとする要人が列席し、参加した僧は1万人に及んだという。正倉院文書(もんじょ)のうちには、この時列席した僧の名簿が残っており、「僧一万人」は誇張ではなかったことが知られる。開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が担当した。開眼の際に使用した筆や、当日大仏に奉納された伎楽に使用された面などは、正倉院宝物として現存している。
[編集] 大仏鋳造の技法
天平18年(746年)に完成した「原型」とは、ブロンズ像を造るための原型である。これは次のようなものであったと想定されている。
まず、木材の支柱を縦横に組み、これに細い枝や縄などを編んだものを巻きつけて「かご」のようなもので大仏全体のおおまかな形をつくる。
これに土をかぶせる。かぶせる土はきめの荒いものから塗り始め、だんだん外側へ行くにしたがって粒子の細かい土を塗っていく。こうしてブロンズ像と同じ大きさの粘土製の像ができる。これを原型または中型(なかご)という。
原型の土が十分乾燥してから、今度は中型全体を覆うような形で「外型」(雌型)をやはり粘土でつくる。中型と外型が接着しないように、薄い紙をはさむ、あるいは雲母をまくなど、何らかの方法が取られたはずである。
外型をはずす。
中型の表面を一定の厚みで削る。
一度はずした外型をふたたび組み合わせ、外型と中型のすき間に溶けた銅を流し込む。中型を削ってできた空洞がそのまま完成像の銅の厚みになる。大仏の場合、巨像であるため、脚の部分から頭部まで全部で8段に分け、丸2年かけて鋳造したことが知られる。
以上、きわめて簡略かつ概念的に説明したが、外型と中型がずれないようにするための工夫、鋳造後の表面の仕上げ、螺'658;の取り付け、鍍金(金メッキ)など、他にも多くの工程があり、これだけの巨像を造立するには想像を絶する困難があったものと思われる。
[編集] 国分寺設置および大仏造立の思想的・時代的背景
大仏は姿の上では釈迦如来など他の如来像と区別がつかないが、盧舎那仏という名の仏である。盧舎那仏は、華厳経(西暦400年前後に中央アジアで成立し、中国経由で日本へもたらされた仏教経典)に説かれる仏で、華厳経に言う「蓮華"101;世界」の教主である。華厳経の思想はきわめて深遠かつ難解であるが、ごく概括的に言えば、聖武天皇は日本の総国分寺である東大寺に廬舎那仏を安置することによって、日本の国土を華厳経の「蓮華"101;世界」のような理想的世界にしようという意図があったものと思われる。
聖武天皇は天平13年(741年)の詔で、国ごとに国分寺と国分尼寺を造ることを命じた。そして、東大寺は大和国の国分寺であるとともに、日本の総国分寺と位置づけられた。この国分寺造立の思想的背景には「金光明最勝王経」の信仰がある。日本に仏教が伝来したのは6世紀前半のことであった。聖武天皇の時代には仏教伝来からすでに2世紀が経過、平城京には元興寺、"220;師寺、興福寺などの大寺が建立されており、歴代の天皇は仏教を篤く信仰していた。こうした政教一致ともいうべき国家体制のなかで重視されたのが、国を護る経典である「金光明最勝王経」(10巻、唐僧の義浄訳)であった。同経の説くところによれば、この経を信じる国王のもとには、仏教の護法神である四天王が現われ、国を護ることになっている。聖武天皇は、日本のすみずみにまで国分寺を建て、釈迦像を安置し、金光明最勝王経を安置することによって、国家の安定を図ろうとする意図があったものと思われる。聖武天皇が位についていた8世紀前半、すなわち天平時代の日本は決して安定した状況にはなかった。天平9年(737年)には、当時の政治の中枢にいた藤原武智麻呂・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂の四兄弟が、当時猛威をふるっていた天然痘(疫病)で相次いでこの世を去った。そのほかにも、天平時代は例年旱魃・飢饉が続き、天平6年(734年)には大地震で大きな被害があり、国分寺建立の詔の出る前年の天平12年(740年)には九州で藤原広嗣の乱が発生するなど、社会不安にさらされた時代であった。聖武天皇による国分寺の建立、東大寺大仏の造立には、こうした社会不安を取り除き、国を安定させたいという願いが背景にあったものと推測されている。
[編集] 東大寺と橘奈良麻呂
天平勝宝4年(752年)に、大仏の鋳造が終了し、天竺(現在のインド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が盛大に挙行された。そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことである。だが、このような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇の思惑とは程遠い事実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制が崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。
天平勝宝8年(756年)5月2日、聖武太上天皇が没する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで、永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いはないし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったと言う。橘奈良麻呂の乱は計画性に乏しく軽率と言えば、軽率ではあった。しかしながら、反乱の口実に東大寺が利用された、ということは東大寺建立自体が、天皇の理想を実現させるだけのために、実際の労働状況や財政事情等の問題点を度外視した途方もない一大プロジェクトであったことをも、白日の下にさらした。
[編集] 2度の炎上と復興
大仏には、完成後数十年にして亀裂や傾きが生じ、斉衡2年(855年)の地震では首が落ちるという事故があったが、ほどなく修理されている。その後大仏および大仏殿は、源平争乱期と、戦国時代の2回、兵火で焼失している。
[編集] 平重衡による焼失
1回目は治承4年(1180年)の平重衡の兵火によるもので、この時には興福寺が全焼、東大寺も伽藍の主要部を焼失する大惨事となった。この時、大勧進職として東大寺再興に奔走したのは俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん、1121年 - 1206年)という僧であった。「勧進」とは仏と縁を結ぶように勧めることで、転じて寺院の再興などのために寄付を集めること、またその役を担う僧のことを指した。重源は当時来日していた宋の鋳工・陳和卿(ちんなけい)らの協力を得て、大仏を再興、文治元年(1185年)に開眼法要が営まれた。この時、開眼の筆を執ったのは後白河法皇であった。また、大仏殿の落慶法要は建久6年(1195年)、後鳥羽天皇、源頼朝、北条政子らの臨席のもと行われた。
[編集] 松永久秀による焼失
大仏殿を支える柱大仏と大仏殿の2回目の焼失は永禄10年(1567年)、松永久秀の兵火によるものであった。この時は時代背景も違い、復興事業はなかなか進まなかった。大仏殿はとりあえず仮堂で復興したが、それも慶長15年(1610年)に大風で倒壊し、大仏は仏頭が落ち、雨ざらしの無残な首無し状態で数十年が経過した。
東大寺大仏殿貞享元年(1685年)、公慶上人(1648年 - 1705年)は、幕府から大仏再興のための勧進(資金集め)の許可を得、ようやく再興が始まった。こうして元禄4年(1691年)完成、翌年開眼供養された大仏と、宝永6年(1709年)に落慶した大仏殿が現存のものである。
現存の大仏は像の高さ約14.7メートル、基壇の周囲70メートルで、頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代から室町時代の補修であるが、台座、右の脇腹、両腕から垂れ下がる袖、大腿部などに一部天平時代の部分も残っている。台座の蓮弁(蓮の花弁)に線刻された、華厳経の世界観を表わす画像も、天平時代の造形遺品として貴重である。
現存の大仏殿は正面の幅(東西)57.5メートル、奥行50.5メートル、棟までの高さ49.1メートルである。高さと奥行は創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86メートル)の約3分の2になっている。木造建築としては、明治時代に建てられた東本願寺御影堂とともに日本最大級のものである。なお、大仏殿に関して「世界最大の木造建築」と紹介する資料が多いが、20世紀以降の建築物の中には、アメリカ海軍が1942年から1943年にかけて全米各地に建造した飛行船の格納庫(うち9棟が現存)、秋田県に所在する大館樹海ドームなど、大仏殿を上回る規模のものが存在することを付記する。
[編集] 関連項目
8世紀日本の首都であった奈良市には、東洋最大の仏像で有名な東大寺がある。そしてその法堂の後ろには、同寺の倉庫であった木造の正倉院があるが、聖武天皇の死後、東大寺に寄贈された遺品がその正倉院に保管されることになり、後には日本皇室の宝物倉庫ともいわれるようになった。そしてその正倉院の中から、当時の日本と新羅との貿易関係がよくわかる様々なものが発見された。そこで東大寺の正倉院に保存されている遺物の中に、新羅との貿易関係がわかるものがどれぐらいあって、それらを通じて見た日本と新羅との外交関係はどういうものだったのかを探ってみたいと思う。
新羅産毛氈の荷札
正倉院への一般人の接近は許されなかったという。そのおかげなのか1200年の歳月にもかかわらず、今でもその中に保存されているものは当時のままである。
このように大事に扱われた正倉院で発見された遺物の中には、高句麗、百済を統一した百済でつくられた、今でいうカーペットのように使われたと思われる毛氈が50枚もあった。これは当時としてはとても貴重なものだったので、王族や貴族または僧侶など限られた人だけが使用できたものだという。そしてこれらには新羅産ということがわかる荷札がついており、その荷札の内容からは当時その品を造った製造者までも知ることができるという。のような事例は正倉院に所"101;されている新羅産真や墨を通じても確認することができる。こういった荷札は、今で言う商品のラベルと似たような役割をしていたのではないかと考えられる。
新羅と日本の貿易
752年、東大寺の大仏開眼式に参席するため、新羅の使節700人が日本にきた。これは日本皇室が長年をかけて造り上げた東大寺の大仏を祝うため、各国使節団を開眼式に招待したことによるものだった。当時新羅使は大宰府に到着、海路で難波に入り、淀川等を通り奈良に到着した。6月14日新羅の使節団は、天皇に外交辞令をのべた後、公式的外交日程に入るが、ここで注目されるのがこのころ日本川の公益希望品目を書いた公文書、「買新羅物解」の作成である。この時期「買新羅物解」は30枚も作成されるが、その作成日程を見てみると6月15日から7月8日までで、新羅の使節団が日本に滞在した在留期間と一致するのである。そしてこの公文書は新羅の使節団との公的貿易を通じて、毛氈などをはじめとする300余の品を購入するために作成されたものであった。
しかしこの当時、東大寺の開眼式に参席した新羅の使節団は700人全員ではなかった。700人の内奈良についたのは370人だけで、残りの330人は停泊地である新羅江(現在の天満橋付近)から上陸し、日本の貴族たちと私貿易をしていたのであった。こういった貿易関係を通じて様々な新羅産の品が日本に渡ることになったのではないかと考えられる。そして752年日本に来た新羅の使節団は、外交任務だけでなくこのような貿易までも担当していたことがわかる。
買新羅物解
買新羅物解とはつまり当時買いたい物を書いた文書である。そして買新羅物解の解とは役所での上申書をさすが、この解からわかったことは、新羅物の購入には申請が必要であって、その申請者のほとんどは五位以上の上級官人と推定されるということだった。そうした貴族の購入希望をおそらく大"101;省がまとめ、新羅の対応する役所「倭典」と交渉したようである。この様子は国家間の貿易そのものと言えるだろう。
さて、買新羅物解のリストだが、品目は香料や"220;品、顔料、調度品など日本では手に入らないような贅沢品であった。これらの中には新羅でも生産できない物も入っていたので、それに関しては新羅による中継貿易品と考えられる。なかには新羅特産もあったようで、たとえば高麗人参や佐波理などがある。サハリとはおわん(碗)を意味する韓国語のサバルからきたものと考えられているが、これは新羅の首都であった慶州の古称・徐羅伐(ソラボル)がなまって真鍮製品をサブラというようになり、それからサバルがサハリとなまったものだといわれている。また当時の新羅真鍮製品のことをシラギとも呼んでいたというが、これは考えてみればイギリスで陶磁器のことはチャイナ(china)、漆器のことはジャパン(Japan)というのと同じような現象だといえるだろう。これ以外にも正倉院には「新羅武家上墨」「新羅楊家上墨」と銘の入った墨なども残っている。こういた事実は、8世紀における新羅と日本との間で文物の交流が盛んであったことを示すといえると同時に、新羅からの輸入品が日本の貴族社会全般に大きな影響を与えただけでなく、上層貴族文化の象徴であったと言えるだろう。
正倉院の宝物の意味
正倉院に保存されているものは、主に8世紀前後世界各地から入ったものである。日本の古代国家の完成期であったこの時期に、日本文化を一段階高めたということで、日本ではこの正倉院の遺産に対する自負心がとても強い。そしてこの正倉院の宝物で象徴される8世紀の日本文化を、聖武天皇のころの年号をとって天平文化と呼んでいる。
一方この時期中国も唐の文化が花を咲かせていて、首都長安は世界各地から様々な文物が集まる交易の中心地だった。それで新羅もこの時期長安に使臣を派遣し、輸入してきた唐の先進文化を日本にまた輸出していたのである。しかし日本はなぜこのような文化を中国から直接受容しなかったのだろうか。それは島国であった日本が外部の文物を受容するには遠くの国まで行ける船が必要であったが、それまでの日本にはまだそのような造船術が発達していなかったのであった。そこでこういった事情の日本に、中国の品までも入れるにしたのが、当時東アジア一帯で造船術と航海術の達人として活躍をしていた新羅商人の存在であったのだ。
日本皇室の宝物倉庫正倉院に眠っている新羅からの文物は、このような新羅の力量と日本と盛んに行われていた当時の貿易関係の様子を今日も静かにもの語っている。
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▼京師交易と太宰府交易、その差異▼
8-9世紀において、東アジア交易の担い手となった新羅人商人は、興味をそそるテーマであ
る。それに直接答えてくれる文献にいまのところ行き当たらない。李成市著『東アジアの王権と
交易』(青木書店、2002)は、それに一定の回答を与えてくれるかにみえる。しかし、その「主題
は、8世紀以降の日本と新羅や渤海との交流の性格を再検討することにある。古代東アジアの
王権間でなされた交易の分析を通して、私たちがこれまで見過ごしてきた古代国家相互の交
流がもつ独自の姿を少しでも明らかにしたい」(李前同、p.17)。そして、次のような通説を批判
することにある。
「新羅と日本との関係は、752年(天平勝宝4)の大仏開眼供養会の際に、王子金泰廉の来日
はあったものの、しっくりいかない状況が続いていた。あくまで朝貢を求める日本と、対等の独立
国としての外交を求める新羅との'366;引きの結果である。しかしここで大事なのは、これ以降の新
羅使が貿易使節としての性格を強くしていくことであろう」。
当面の752年新羅使について、それが将来した「金および、東南アジア・インド・アラビア産の
香料や"220;物が多数含まれていることが注目される。前者は大仏塗金用の金の調達に苦労した
日本が、冷却関係を度外視して新羅との交易に努めた現実をよく示しているし、後者からは新
羅の貿易が中継貿易としての性格をもち、市場としての日本に大きな魅力があったことがわか
る」という。
そして、その後の新羅使について、その「入京を拒否して太宰府から帰国させる場合でも、皇
族や貴族が新羅のもたらした貿易品を購入することは認めている。彼此の利害の一致したとこ
ろに、冷却した国家間関係とは別に、太宰府における大規模な貿易活動が生まれたのである」
(以上、渡辺晃宏『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』、p.293-4、講談社、2001)。
それに対して、李成市は「760年以前における国家間の交易は、王権間における相互の緊張
関係の中でなしえた交易であり、政治的メッセージをともなって外交上の交渉の中でおこなわ
れた交易であった。それゆえに、760年以降には、新羅側に対日本外交への積極的な必要が
みいだされなくなるために、全く新たなレベルの交易が始まる」(李前同、p.183)。そして、日本
の新羅との交易は8世紀にあっては京師交易であったが、9世紀から太宰府交易という新しい
性格を持つようになった。なお、日本の渤海との交易は8世紀から10世紀初頭まで一貫して京
師交易であった。
「京師(平城京・平安京)における交易とは、王権が直接管理し、王権の権威のもとで再分配
されるような、王権が直接に介在する極めて政治性の強い交易なのである。一方、太宰府にお
ける交易とは……9世紀以降とくに顕著になる新たな形態の交易であって、そこでは中央政府
の監督のもとで、太宰府が管理する交易であり」(李前同、p.171)、新羅人商人が「主体的担い
手とした交易活動であった」(李前同、p.173)。
したがって、新羅人商人のあり方を直接に扱ったものではない。日本史に立ち入るつもりは
ないが、新羅人商人の交易の具体的な形態を知るためには、それなりに有効であろう。
▼新羅毛氈の布記と買新羅物解▼
まず、京師交易の典型であるかのように、752年新羅使の交易を取り上げる。
正倉院には唐ばかりでなく、新羅・渤海産あるいは経由の宝物が多くあることは周知の通り
である。そのなかに、新羅特産の毛氈(もうせん、法会の座具)があり、その2床それぞれに布
記が付いている。その布記は荷札あるいは送り状とされ、その売り主の名前と、彼がそれと交
換したい品目(絹糸や真綿)が記入されており、その1つには交換された真綿の量が異筆で記
入されている。毛氈は新羅貴族の家産工房で生産されたものであって、752年新羅使が持ち
込んだものである。
他方、「買新羅物解」という、8世紀の文書がある。それは、すでに【2・2・4 東アジア世界、宋
代までの海上交易】において若干取り上げているが、752(天平勝宝4)年6月中旬から7月上旬
にかけて、朝廷が五位以上の貴族に対して、どういった新羅文物を購入したいかを、大"101;省か
内"101;寮に上請させた文書だとされる。それに記載されている新羅文物が、その時期、日本に
持ち込まれたとされてきた。
買新羅物解は30枚ほどあるとされる。李成市氏の説明では、「念物として、まず新羅の文物
を列挙したのちに[その逆もある]、代価として支払うべき絹製品の種類、[とその]分量および
提出年月日、提出者名が、各々明記されている」となっている(李前同、p.49)。ある例を示せ
ば、「鼓吹司正外従五位下大石 合八種 直綿四百斤 鏡五面 麝香 個子 金青 雑香 朱沙
同黄 蘇芳 右件念物具録(如件以解) 天平勝(寶四年六月)」となっている(綿1斤=224グラム=1
屯、小制)。
これら新羅毛氈布記と買新羅物解は対応した史料であって、752年に来日した新羅使の交
易に関わる文書である。
8世紀前半、東アジアは唐を覇権国として、日本、新羅、渤海は三すくみで対立しあってき
た。その世紀半ば、日本は国威を東アジアに示そうと躍起となり、新羅は渤海対策を腐心して
いた。そうした情勢のもとで、752年日本と新羅とは使節を交換しあうこととなる。
日本は、同年1月に、12年ぶりに山口人麻呂を大使とした、遣新羅使を派遣する。その目的
は、大仏造営を述べ立て、新羅王の来朝を求め、金を輸出させることにあったとされる。その
招請に答えて、新羅使が10年ぶりに来日することとなる。それは7隻700人という大使節団(そ
の構成は不明)となり、金をはじめとした、大量の新羅や唐の文物を持ち込んだとされる。な
お、日本にとって752年は非常に劇的な年であり、新羅使の他、同年4月には藤原清河らの遣
唐使船が出帆し、4月9日には大仏開眼供養会が執り行われ、9月24日にはこれまた13年ぶり
に渤海使が来日する。
こうした大規模な使節となったことについて、李成市氏は「日本側の強い働きかけにはじまり
……新羅側の応答があったから」であり、「交易が持っている平和と友好の意思表示という一
面を見逃すべきでない」と述べる(李前同、p.126)。それをさらに具体的いえば、日本の貴族が
念じてやまない新羅をはじめ唐の文物を、新羅の貴族たちが交易に回したからであろう。な
お、大仏開眼供養会は4月9日執り行われるが、彼らを参加させなかったとされる。また、この
年の使節交換にもかかわらず、その後も日本と新羅の冷却関係は解消することはなかった。
▼日本と新羅の貴族間の委託交易書面▼
このように、李成市氏は日本に残された752年新羅使に関わる2つの交易文書について説明
するが、はたして万全な説明といえるであろうか。
新羅毛氈布記は、毛氈を代物(代価)として、日本産品の念物(入手したい品)を購ってもら
いたいとあり、その条件は念物の品目のみで、その量目は問われていない。他方、上で見た
買新羅物解の例では、直綿400斤を代物として、鏡五面以下の合せ8種の念物を購ってもらい
たいとあり、その条件は代物の絹製品の量目を限度として、様々な文物を手に入れたいという
ことで、文物それぞれの量目は問われていない。また、すべての品目を入手できると期待して
いたとは思えない。
実際の取引は、それら書面を手渡した人に委ねられ、その結果については記入した条件以
外について、これら書面を作成した人は苦情を述べないという内容になっている。それらは一
応同じ形式の委託交易書面といえる。ただ、その委託条件について後者は念物の選択の幅
があるように見える。こうした委託交易という形態は、この時代の海上交易あるいは遠隔地交
易において、かなり広く行われていたかに見える。後述の約1世紀後の宮田麻呂事件でも利用
されている。
752年新羅使が持ち込んだ交易品は新羅毛氈だけではなく、個別の日本貴族が入手を希望
する品目数は3種から46種までとまちまちであるが、極めて多種多様である。それに対して、代
物となる日本産品は綿、絹、糸、あしぎぬという4種の絹製品に限定されており、新羅毛氈の布
記が示す日本産品と一致する。なお、交換に差し出す絹製品の量目は、おおむね記載されて
いた。
そこで問題は、李成市氏は新羅使が日本に持ち込んだ品々を、新羅貴族の委託品(正確に
は委託購入代物)として論述しているが、そうとは限らず、新羅商人の品々も含まれていたの
ではないか。また、新羅使のなかに商人がいたのか、いなかったのかについては、李成市氏
は口を閉ざしている。しかし、その使節団が700人という多数であり、また後述の渤海使の構成
でも明かのように、かなりの商人が乗り込んでいたと見られる。
それにしたがえば、新羅使とともに日本に持ち込まれた品々は新羅貴族のわれわれのいう
委託品ばかりでなく、来日しない新羅商人の委託品、そして乗船している新羅商人の交易品も
含まれていたこととなる。さらに委託人が誰を受託人として委託品を手渡したかである。それ
は、さしあたっては新羅使の官人であるが、乗船する商人を受託人としたことであろう。さら
に、日本の場合、大"101;省か内"101;寮かを受託人としているが、委託人は単に五位以上の貴族ば
かりとはいえず、彼らは五位以下の官人や富裕な人々からも委託を受けていたに違いない。
このように、2つの文書を委託交易書面と捉えるかいなか、また新羅商人の乗船をどう見る
かによって、論旨は大変異を遂げることとなる。
▼752年新羅使の日程とその交易▼
752年新羅使は、次のような日程で平城京に入京し、帰還しているという(李前同、p.86)。
閏3月23日 金泰廉ら700人が筑紫に来航
? 瀬戸内海より難波津に至り、入京
6月14日 拝朝
6月15日 買新羅物解の提出[開始?]
6月17日 朝堂にて饗宴
6月22日 大安寺・東大寺に礼仏
7月8日 買新羅物解の提出[終了?]
7月24日 難波館に帰還
ここで示されていることは、買新羅物解が6月14日拝朝後の6月15日から7月8日にかけて提
出されたということだけである。李成市氏は、「『買新羅物解』にみられる新羅文物の購入請求
は、新羅側が売却の意図をもって新羅文物を日本に搬入して、初めてとりうる行為とならざる
をえない」と説明する(李前同、p.84)。少々回りくどい説明となっているが、要するに新羅貴族
の文物のリストあるいは現物を見て、日本貴族が欲しい新羅文物を申請したのだとする。
新羅文物(唐の文物を含む、以下同じ)の搬入と、リストあるいは現物の開示は、6月14日拝
朝前に行われたであろう。買新羅物解の整理と新羅文物リストとの突き合わせがいつ行われ
たか、そしてそれにもとづいて交換業務がいつどのように行われたか、さらに新羅文物や日本
産品の搬出入がどのように行われたかは、まったく分からない。
それらのうち、日本産品の難波館への搬入と新羅文物との交換は、新羅使が7月24日難波
館に帰還後、彼らが難波から帰帆するまでに終了したことであろう。新羅文物の提出者へ交
付は、彼らの帰帆後になったであろう。それにつけても、新羅使は極めて多様な文物を持ち込
んでいるが、日本は代物として極めて少種な産品しか提供していない。また、6月14日拝朝前
の新羅文物の開示から、短期間に買新羅物解の提出が終わっていることは、日本貴族の新
羅文物渇望の強さを示すものとして注目される。
▼752年新羅使による交易の性格▼
こうして実施された752年新羅使による交易の性格について、李成市氏はその「交易は、賓
礼という国家的儀礼のプロセスに組み込まれていた。交易は決して自由取引ではなく、政治的
に徹底的に管理されていた」とし(李前同、p.124)、次のような意味合いを繰り返す。
「これまで詳さにみてきたように、752年に新羅使節と平城京の特定の支配層の人々との間
でおこなわれた交易は、賓礼の過程のなかで国家機関の管理下におかれてはじめて実現した
交易であって、その性格は単なる商業目的とはみなしがたいものであった。
このような交易は、新羅側からみれば大量の文物をもたらすこと自体が新羅国家の保全に
関わる、優れて政治的な意図に基づくものであった。一方、日本側からすれば、天皇への貢物
とともに新羅がもたらした文物を五位以上の貴族に再分配することは、新羅使節への賓礼と
相侯って天皇の権威をたかめ国内の支配体制を強化するという、政治的な効果が期待できた
のである。
これに加えて、762年以降の渤海と日本の外交関係に対しても経済的性格が強調されてきた
が、渤海側の対日本通交の背景や日本側の対応を検討することを通じ、それらの性格につい
ても8世紀における新羅と日本の外交関係と同様に、やはり政治性を濃厚に帯びていた」(李
前同、p.160-1)。
李成市氏は、752年交易は「新羅使節と平城京の特定の支配層の人々との間でおこなわれ
た交易」とする。それでありがら「天皇への貢物とともに新羅がもたらした文物を、五位以上の
貴族に再分配する」などという。しかし、「新羅がもたらした文物」は委託品と交換されるのであ
って、下賜されるわけではないので、再配分されたなどとはいえない。それは、日本と新羅の
貴族間の委託品と正しく捉えず、交易の政治性を強調しようとするあまり、「再分配」という用語
を一人歩きさせてしまっている。
このように、752年交易は私物の交易を含んでいた。朝廷は「政治的な効果を高め」ようとし
て、それを官物の交換という典型的な官交易―後述の渤海使と同じように―のなかに取り込
んで行ったといえる。そう捉えれば李成市氏のくどい解釈も少しはうなずけよう。
この752年新羅使は、新羅の意図はともかく、日本が大仏開眼供養という国を挙げての大祭
事を通じて、国際的にも国威を顕示するために仕組まれ、特別に招請された使節である。その
ため空前絶後の大規模な委託交易となった。そうした特異さは、新羅毛氈布記や買新羅物解
といった文書を用いた交易が、それ以前も以後もみられないことでも明らかである。
したがって、752年新羅使を京師交易の典型とするわけにはいかないであろう。そうした限定
を、李成市氏が752年新羅使とその京師交易に付けないことは、理解に苦しむ。いずれにして
も、これ以後新羅使との交易らしい交易はなくなるので、752年の日本と新羅との京師交易の
最後のあだ花であったといえる。
▼渤海使、軍事使節から交易使節へ▼
それに対して渤海使との交易はどのようなものであったか。新羅使は、676年の朝鮮統一後
から8世紀半ばにかけて40余次にわたって派遣してくるが、それ以後は極端に減少する。それ
に取って代わるかのように、渤海使は727年から10世紀初めにかけて、その派遣回数を増やし
続け、35回に及ぶ。なお、渤海は唐や日本と長期にわたって交流したが、新羅とは外交しなか
ったという。
8世紀半ばまでの渤海使は、唐や新羅との対立に手当てした36人ほどの軍事使節であった
が、762年唐から郡王から国王の称号が与えられることで唐との関係が好転すると、9世紀に
かけて交易使節としての性格が強くなる。それに応じて、使節は8世紀後半180-300人規模とな
り、9世紀以降は105人規模による定期的な「商旅」となる。
日本側が渤海使を「商旅」とみなしながらも「賓客」として受け入れ、渤海側も「蕃属国として、
従属的な姿勢で日本との外交を継続し[て]、大規模な交易を推進したのか」について、通説は
疑問を持たないと李成市氏は批判する(李前同、p.138)。
渤海は、建国以来、新羅に接するところで狩猟と交易を生業としている靺鞨諸部族を統制、
管理、することに腐心してきた。8世紀半ばになり、彼らを統合することに成功する。しかし、そ
の統合を維持するためには、彼らの唐などへの交易活動を取り込みながらも、彼らにも交易
の道を用意する必要があった。例えば、841年の渤海使105人の構成を見ると、使頭1人、嗣使
1人、判官2人、録事3人、訳語2人、史生2人、天文生1人、大首領65人、梢工28人となってい
る。
そのなかで、圧倒的な多数を占める首領(大首領)は、「渤海が包摂した靺鞨諸部族の首長
にほかならず、渤海はかれらを制度的に組織して、対日本外交へ恒常的に参加させていた」と
いう。しかも、「首領たちは遣使に加わって来日すれば、日本側から回賜(返礼品)として絹製品
が与えられた」。回賜総量絹40疋、あしぎぬ475疋、絲420絢、綿2040屯のうち、首領たちへの
回賜量はあしぎぬ325疋、綿1300屯という多さでなった。そこで知りたいことはむしろ、首領たち
が貢納品以外に、どのような産品をどれくらい持ち込んだかである。それが相当量であったで
あろう。
これら渤海使は、「平安京に入るや客館である鴻臚館に安置され、蕃客として賓礼の過程
で、日本側の官僚機構を媒介に交易をおこなった」のである。9世紀末ではあるが、872(貞観
15)年5月に加賀に来着した渤海使節の例によると、同15日に入京し、入朝の儀を鴻臚館で行
った後、次のような行動をとったことが伝えられている(以上、李前同、p.140)。
20日 内"101;寮と渤海使節の間で貨物を交易
21日 京師人(平安京の居住者)に渤海使節との交易を許可
22日 諸市人と渤海使節との間で私的な交易を許可
靺鞨諸部族の首領たちが持ち込んだ大量の品々は官交易ばかりでなく、公認された上で、
官人を含む京師人や地方人とのあいだで私交易されている。それを日本は京師交易の一環と
して受け入れていたのである。
▼新羅商人の頻繁な来航、私交易の公認▼
それでは、その後の日本の新羅との交易はどうなったか。李成市氏は9世紀に入って新羅商
人の交易が顕著になったとする。その初見記事は、814(弘仁5)年10月の新羅商人長門漂着で
あるとして、次のような年表を示す。また、8世紀末から9世紀前半の北部九州を中心とした遺
跡から、唐代後半および北宋前半期の中国初期貿易陶磁器が発見されているが、それらは
唐商人の来航の初見記事の842年に先立っており、それらは新羅商人が持ち込んだ商品であ
ると注目する。
814年 新羅商人31人、長門国豊浦郡に漂着
818年 新羅人張春ら14人、太宰府に来たり驢馬4頭を献上
820年 新羅人季長行ら、やぎ2・白羊4匹などを献上
824年 新羅人張宝高、太宰府を訪れる
835年 この頃、壱岐に新羅商人がしばしば訪れる
838年 壱岐に新羅商人が絶えず往来する
840年 張宝高の使者が「万物」を献上
こうした状況の下で、日本の政府は矢継ぎ早に対応せざるをえなくなる。827(天長5)年正月2
日、太政官が国司に官符「応に交関を禁ずべき事」(『類聚三代格』巻18)を下し、蕃客との私
交易の禁止を犯すものには国司といえども重罪とする。831(天長8)年には、太政官が太宰府
に官符「応に新羅人の交関物を検領すべき事」を下している。それは次のよう内容であった。
「すなわち、人々が資産を尽くし高値で争って外国の貨物を購入しているが、これを取り締ま
らなければ弊害はつきない。そこで太宰府に厳しく取り締まらせて、たやすく取引をさせないよう
にし、新羅商人が来着したら、まず政府の需要に適するものを選び出して中央に送り、不必要
なものは太宰府官が点検して一般人民に交易させるが、ただしその際の取引は估価(公定価
格)にしたがうこととし、違犯者は厳罰に処する」(『類聚三代格』巻18)(以上、李前同、p.162-
3)。
それ以外では、840(承和7)年12月張宝高の使者が万物を献上した際、太政官が太宰府に発
した官符(『続日本後紀』巻10、承和8年2月戊辰条)は、他国の臣(!!)の貢ぎ物は返却し、その
他の貨物は公定価格を守れば、ほしいままに民間と交易させてよい指示している。また、842
(承和9)年8月15日、太宰大弐藤原衛が新羅人の入国禁止を求めた際、太政官が下した官符
「応に入境せる新羅人を放還すべき事」(『類聚三代格』巻18)は、新羅商人と地方民との私交
易が終われば、それ以上の滞在を許さず、すぐさま帰国させよとしている。
こうした日本の対応について、李成市氏は「少なくとも8世紀から9世紀初頭においては、全く
想定されていなかった新たな事態」、すなわち「新羅人や渤海人の頻繁な来航と、彼らと民間と
の接触を公認したうえで、それを前提にして現地の責任者である太宰府や国司に交易を取り
締まるよう対応策を講ぜざるをえなくなった事態を反映している」という(李前同、p.165-6)。
すなわち、9世紀に入ると、新羅使でない新羅商人の北九州への絶えざる登場と、舶来品の
国民的な需要の拡大を受けて、太宰府や国司の管理のもとで、政府による先買い後に私交易
が公認されてきたのである。その場合、公定価格での取引が求められ、また外来商人は交易
後の速やかに帰国させ、居留させないようにしたのである。
なお、【2・2・4 東アジア世界、宋代までの海上交易】で取り上げている、前筑前守文室宮田
麻呂事件は9世紀半ば太宰府における交易管理の実態が露わにしたが、すでにみた買新羅
物解と同じように、代物を差し出した上で舶来品の購入を委託する形式が見られることであ
る。その場合、それは自らの太宰府にはなく、新羅商人に出されている。これは地位利用の密
貿易である。
▼新羅商人との私交易の始期とその契機▼
李成市氏は、こうした9世紀に入って顕在化する太宰府交易は、「さらに8世紀にさかのぼっ
てあったはずであると推定され、それを裏づけるのが『買新羅物解』にみられる752年の交易で
あると、多くの論者によって主張されてきた」と批判し、それが「いつ頃、何を契機にして始まる
のだろうか」を問う(李前同、p.170-2)。
その始期に関わって、8世紀という段階から新羅商人が交易を行っていたという根拠として、
『続日本紀』巻29・神護景雲2にある、768年10月24日左右大臣以下の貴顕たち9人に、「新羅
の交関物を買うが為」に、太宰府の良質な綿(85000屯)を下賜した史料が挙げられてきたとい
う。この綿85000屯は、841年の渤海使105人に回賜した綿2040屯の、実に42倍当たる膨大な
物である。新羅商人の大船団が来航したのであろうか。貴顕たちが容易に手を出せる量では
ない。
それについて、李成市氏は「この年(768年)に新羅使節が来日した記録はなく、それゆえ新羅
使節以外の者がもたらした交関物(交易品)の実在を前提とした出来事」が起き、大量の綿の
支払先が「新羅の公的使節でないのならば、残るは新羅商人でなければならない」とし、この
交易は「当事者は平城京の一部の特権層ではあるが、それ以前の王権間の交易とは異なる、
新たな形式・方法による交易がおこなわれていた」ことを認めざるをえないという(李前同、p.
175)。
この奇妙な史料について、いま述べた以上の追求はみられない。この史料から明らかなこと
は、日本政府がそれ以前から、太宰府に大量の綿を集積して、それを新羅商人との交易の代
物としていた。そして、日本政府が新羅との交易相手として、新羅使をあきらめ新羅商人に切
り替えていたことである。
朝廷が、貴顕たちに新羅文物を入手させたいのであれば、自らが買い付けた上で、貴顕た
ちに下賜(再配分)すれば事は足りる。そうではなく、わざわざ綿を下賜して買い付けさせると
いう面倒なことをするのは、なぜか。それは、代物の大量さから見て、いまだ伝統的な朝廷交
易を払拭することができないため、朝廷は新羅商人を交易相手にして直接、買い手になること
をきらい、貴顕たちを名義人にして交易しようとしたのではないか。あるいは、貴顕たちを名義
人とした代物を手渡し、委託交易の買付を新羅商人に委託したのではないかである。そのうち
後者が最もらしい。
そうだとすれば、綿を下賜したという史料は、そうした擬制的な交易のための、ダミーの書類
といえる。この見せかけの下賜を解消するために、貴顕たちが新羅商人から買い付けた文物
を朝廷に献納あるいは返納するとした、もう一通のダミーの書類があったに違いない。
768年新羅商人との交易は、新羅商人の絶えざる来航と日本の朝廷・貴族のあくことのない
舶来品嗜好によって、朝廷交易を換骨奪胎した形態になっていたのである。そうした意味合い
で、768年交易は新たな形態になったといえなくはない。
李成市氏は、「新たな形式の交易がなされたと推定される768年と、王権間の交易がなされ
た752年と……の16年の間に……京師交易から太宰府交易への画期を見いだすことができ
る」(李前同、p.175)。その間を「単なる16年間と軽視することはできない……東アジアにおいて
劇的な国際環境の変化があった……768年の交易は9世紀の太宰府交易の先'366;形態とみな
せるとしても、それを16年前に安易にさかのぼらせ、752年の交易に投影させて解釈してはな
らない」と強調する(李前同、p.176)。
その契機としては、759年の日渤軍事同盟にもとづき、藤原仲麻呂は新羅征討を計画する
が、762年に唐・渤海関係の改善により、渤海が新羅征討に意志を失ったことで霧散し、仲麻
呂も失脚する。他方、新羅では760年代から80年代にかけて反乱が続き、王権が不安定となっ
た。これに符合して、新羅の日本への遺使は779年を最後として、また唐への朝貢も778年以
後行われなくなったことを上げる。
▼新羅商人の山東半島への進出▼
そうした日本と新羅とが国交断絶状態になっていたにもかかわらず、新羅商人は絶え間なく
やって来る。その私交易を日本は公認する。そこで残るは新羅商人がいかにして誕生したか
である。李成市氏は、ここにおいても「従来、何の根拠もなく、ただ単に8世紀の前半より、新羅
において交易にたずさわる商人層の輩出と、彼らの活動を推測してきた」ことを批判する。
そのうえで、すでにみた760年代から80年代、「新羅は王都における激しい権力争いによって
求心力を急速に失い……地方に対する統制が弛緩しはじめた頃に、かつて国家の対外活動
に従わせるために王権の下に組織されていた、海民の自律的な活動がはじまったり、このよう
な動きに呼応する集団が輩出した」のではないかとみる(李前同、p.178)。この政治混乱を受け
て、8世紀末には新羅から日本へ大量の難民が、日本海沿岸に着岸するようになる。
9世紀に入ると、毎年のように飢饉に襲われるようになる。新羅の地方反乱は、海賊の拠点
として注目されてきた朝鮮半島の南西海岸でも起きており、「この地方の海賊の実態が、沿岸
部や島嶼地方に居住する海上生活者(海民)であったとすれば……海民の動向にも大きな影
響を及ぼしたのではないかと考えられる」(李前同、p.178-9)。
唐では、755年の安史の乱を契機にして内地にも置かれるようになった節度使が、地方勢力
として盤踞するようになる。そのなかでも、平盧沺青節度使の李氏一族は819年まで3代・半世
紀にわたって、円仁が新羅商人に依存して旅行した山東半島を支配していたという。その支配
は東シナ海沿岸部の海上活動を促進させた。
李成市氏は、そうした情勢のなかで新羅商人が活躍の場が与えられたと見ているが、それ
以前にその場がすでに与えられていたのではないか。それは、732年渤海は山東半島登州を
攻め、唐と新羅使の海路を制圧する。唐は水軍を貧弱であったため、それを新羅に依存せざ
るをえなかった。翌年には、唐は新羅をして、渤海の南境を攻撃させる。こうした軍事協力のな
かで、新羅商人が山東半島に進出し、居留するようになったと見られる。
山東半島における新羅商人の成功者が、「海島人」の張宝高であった。張宝高については、
すでに【2・2・4東アジア世界、宋代までの海上交易】や【「円仁・入唐求法巡礼行記」を読む】で
取り上げている。彼は、828年山東半島から新羅に帰り、興徳王から清海鎮大使に任じられ、
自ら申し出て奴隷売買の取り締まり―それが海賊退治か―をしていたという。
山東半島に居留する新羅商人は、例えば張宝高が徐州軍中小将、その配下の張詠が軍事
押衙というように、様々な唐の軍事官職を持っているが、それは実職ではなく"394;職であった。そ
れは商人が節度使に賄賂を送り、それから唐の朝廷へ奏請してもらうことでえられる地位であ
った。「地方分権的な勢力をもつ節度使体制のもとで従来、国家によって管理されていた対外
交易が、節度使の管理のもとに移行し、節度使の財源確保のために、商人層に対して対外交
易の資格をあたえることによって、対外交易の担い手を増大させるにいたった」という(李前
同、p.181)。
▼若干のまとめ▼
李成市氏の主たる結論は、日本の新羅との交易は752年新羅使までは京師交易であった
が、その後16年間において、東アジアの緊張緩和と唐や新羅の地方政治の弛緩のもとで新羅
商人が台頭し、768年新羅商人との交易を境にしてその交易を受け入れることに転換し、9世
紀からは彼らとの私交易をも公認する太宰府交易という、新しい性格の管理交易に移行したと
いうことなのであろう。それはつまるところ、752年新羅使には新羅商人は介在していない、し
たがって彼らの中継交易などはなかったとする見解である。
この見解は通説を批判してえられた結論ではある。そこに至った脈略に即して再検討したと
ころ、752年新羅使の交易は委託交易でもあったので、新羅商人が介在していたことは否定し
きれず、現実に彼らが担ったであろう中継交易品が持ち込まれていた。しかし、その交易は京
師交易として「政治性」が塗り込まれていた。そして、752年以後新羅使の来日が期待できない
ため、その早い機会から太宰府において新羅商人を受け入れる体制を整えていた。その1つ
の現れが768年の新羅商人との交易であったが、それはなお京師交易の「政治性」を残存させ
た受け入れであった。
したがって、新羅商人との交易はすくなくとも752年新羅使を起点として始まっていたとすべき
であり、768年交易がその始まりではない。太宰府交易を新羅商人との交易として捉える限り
では、「768年の交易は9世紀の太宰府交易の先'366;形態」とみなしえないことになる。それはむ
しろ、太宰府で行われたものの、政府が交易品を買い占めるという、朝廷交易という形態での
最後の交易といえよう。
しかし、日本は新羅商人の絶えざる来航と、舶来品の国民的な需要の高まりに対応できなく
なり、9世紀には入ると新羅商人と相対する私交易をも公認する。太宰府交易は、日本人の私
交易を公認した交易として捉える限りでは、9世紀に入って新たに形成された形態とすべきで
あって、そこに「先'366;形態」などありようがない。先'366;形態があるとすれば密貿易であって、そ
れは8世紀の早い時期から行われていたことであろう。
なお、太宰府交易は、京師交易にあった交易品の独り占めや交易の全面的管理といった性
格は大きく失われているとはいえ、私交易がまったく自由に行われうるわけではなく、管理交易
―政府の先買い、鴻臚館での取引、公定価格の設定など―として「政治性」はぬぐいさられて
はいない。
李成市氏は、著書の末尾で「ただ留意したいのは、750年代まで継続した政治的交渉に付随
していた交易活動の延長に760年代の新たな段階の交易がおこなわれたことであって、かつて
の政治的な意味あいの強い交易も、それが通例化するなかで交易のシステム化をもたらし、
国際的緊張が後方に退いた後も、とどまることなく交易の論理だけが自己運動していったので
あろう」といっている(李前同、p.184)。これでは通説を支持したことになりかねない。その批判
者にも、通説は奥深くインプットされ、頭をもたげてくる。
新羅であれ渤海であれ、日本のそれらとの交易は760年代を境にして、私交易としての性格
を明らかに強めた。ただ、前者は日本との外交関係に関わりで新羅商人との私交易として展
開されたが、後者は従来通りの、私交易を組み入れた朝貢使―それは日本にとっては外来者
の受け入れやすい形態、渤海にとっては交易管理が容易な形態―として続いた。
こうした二重の交易形態を取ってまでして海上交易を続けるのは、日本の舶来品に対する欲
望が強いにかかわらず、それを自らが積極的に海外に出向いて入手しようとはしない。そし
て、舶来品の産出国―唐や南海諸国―がそれを日本に直接持ち込んでこないとき、日本がそ
のギャップを埋めるには第三者の交易人すなわち中継交易人に依存するしかなかった。その
役割を果たしたのが新羅商人、さらに渤海使であった。この時代の東アジアにおける交易は、
覇権国の唐と小帝国を演じようとする日本の狭間で、彼らは活躍することで成り立っていた。
この日本の海上交易を自立させることなく、自らを閉ざしながら物欲しげな管理交易は、基本
的には明治時代にはいるまで続くこととなる。
일본 東大寺 금동불상 준공식과 신라
- 趙甲濟
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- 2007-09-25, 14:27











